中田こういち(耕市)(籍名耕一)のビジネス履歴と内容明細
●日本で最初のパソコンショップ店長 1975年頃 (アスター・コスモス)
私は、1974年頃、友人の紹介でアスターインターナショナルに入社しました。
中古リース終了の設備一式を引き取り再生し、メンテナンス付で販売するような仕事でした。
それからまもなく、USAで1ボードマイコンが開発されたのです。
この1ボードマイコンは、端末機がないと動かせない物で、これに同社が取り扱うRS232の
テレックス端末機が適合するのです。
何と!ボーレートは110BPSでした。
この1ボードマイコンの輸入で、世の中は一気にマイコンブームになったのですが、
素人には到底扱える物ではなく、また殆どが自分で半田付けしなくてならない物でした。
電子関係が専門であった私には、理解しやすいものでした。
社内でマイコン・ショップ構想が出て、私は店長に立候補し、店長となりました。
場所は秋葉原のビルの5Fでした。
これが公には、日本初のマイコン・ショップ「コスモス」のスタートとなったのです。
この設立から1年後、NECはTK80と言う1ボードマイコンを世に出し、ショールームを
秋葉原に置きました。これが「BIT・INN」でした。
当時のお客様は、新しい物に興味津々の有能な方が多かったように思います。
大学の講師(現在は有名な教授も多数)、企業経営者(パソコンで有名な企業群)
アルバイトも有能な方が多く、現マイクロソフト米国法人副会長の古河さんもいました。
1ボードから今のパソコンの原型に至るには、USAのタンディやPET、ラック式マイコン等
多くの話題となった機種があります。
そして日本のパソコンもモニターTVやキーボード・本体と言ったセットで今のパソコンの
原型となる形態をとり始めたのです。
しかし、その発展時の紆余曲折は、語り尽きないほどの出来事ででした。
これはまた別の機会に取りまとめたいと思います。
●インベーダーを開発したと言われるが「間違い!」1976年頃 (中田個人)

私は、マイコン・ショップを自分で立ち上げようと思い、秋葉原に店舗を探しました。
万世橋と昌平橋との中間付近の1F2Fに店舗を持つことが出来ました。
そして、会社設立を行いました。
中古電子機器からパソコンや周辺機器までを取り扱いし、またオリジナル開発品を
作って売ったのです。
その頃の代表的な作品が「音声メモリー」でした。
デジタルでマイクの音をメモリーに記録する。当時としては画期的な商品でしたが
すぐメーカーに真似をされて、特許の重要性をつくづく感じたのです。
そんな折に友人から紹介されて、アミューズメント関連企業とのお付き合いが始まりました。
業務用アミューズメント機にかわりATARI社のTVゲームを内蔵させる仕事です。
民生用を業務用に使うのです。
簡単にゲームが楽しめるようにしたい、そんな打ち合わせで生まれたのがテーブル型の
喫茶店用アミューズメント機でした。
内蔵させたゲームは、「テニスゲーム」「ブロック崩しゲーム」の2機種です。
特に「ブロック崩しゲーム」は、流行りました。これで予算が出来た私は、
何か新しいゲームはないかと躍起になっていました。
そんな時、ゲーム業界に詳しい友人が教えてくれたゲームがインベーダーであったのです。
すでに業界では評判になりつつあったこのゲームは、USAのミッドウエイ社が原型開発した物
なのですが、従来品と違いマイコンが内蔵され、ROMプログラムで動作する画期的なものでした。
しかし輸入金額は高額で、ゲーム商品としては、効率の悪い物でした。
私は、親しいPCB(プリント基板)メーカーと打ち合わせし、このゲームのコピー品を作ることと
したのです。 (注)もう時効ですが、歴然とした著作権・特許などの違法行為です。
しかし回路図もなくプログラムリストもない状況ですから、コピーといっても大変な作業となりました。
マイコンに詳しいことが幸いして、どうにかインベーダーは作成が可能となったのです。
自分では、この行為に気が引けて、プログラムのオリジナル変更やキャラクターの変更なども
行いました。
気が付くと、毎日現金をトランクに詰めたお客様が来社され、どれほど作っても追いつかない有り様
でした。
と同時に、他でも一斉にコピーが始まりました。今の代表的なゲームメーカーも殆どが
コピー品を作り始めたのです。
同時にインベーダーに使用される半導体も高騰し、現金で100倍の価格でも買えない始末でした。
いつか時間のある時に、このインベーダーの物語を書きたいと思っています。

●秋葉原電子ショップ設立(個人)
今で言えばパソコンショップです。

●コンピュータ事業 パソコン開発製造
インベーダやパソコンショップ経験を生かして、ビジネスを考えた私は、モトローラ社6800CPUを
中心に、システムハウスを作ったのです。何も無い時期でしたからDOSまでチャレンジし、
画像処理技術を開発いたしました。
ハードウエアとしてのパソコンから、今のプログラマーには想像も出来ないマシン語によるシステム
開発までを行ったのです。
時間が出来たら、この当時の事を、書こうと思っています。

●AMC設立し世界全国に独立法人を設立した。
(香港、シンガポール、オーストラリア、タイ、ヨーロッパ各国、USA等)
オーストラリア現地法人で、同国初のパソコン工場を設立、アタッシュケース型パソコンを作る。
またアップルII用FDD装置などを開発製造、年間50万台以上を生産。
年間売上100億円以上を行ったが、多くの出来事があり倒産した。

●応用工学研究所研究員に就任 1985年頃 (中田個人)
私は、20歳代に大きな事業を立ち上げました。また、それは系列ではなく完全な独立ベンチャーでした。
時代的にまだベンチャーを受け入れられる環境もありませんでしたが、それは言い訳でしかなく、
結果として自分の会社を失敗させてしまったのです。
その事は、その後の事業を行う上で大きな足かせになってしまったことは当然の事です。
その様な折りに、友人からの紹介で非常勤の研究員をさせてもらったのが「応用工学研究所」でした。
「組織工学研究所」の故・糸川英夫所長の副所長をされていたのが広沢氏で、この方が所長を
されていたのです。
テーマは、ビジネスと言うより各企業の技術テーマや組織の研究員でした。
(あまり具現的ではなかったと思えます)
特に記憶に残っているのは、S流通(大型組織)への出向研究員と言う事で、このS流通の役員会のような
場所に数度出させて貰った事です。
ここで認識できたことは、結局「ベンチャー」などは、事業ではないと言う考え方でした。
十数年後、この組織も弱体化したようですが、私はここで、日本の大手の考え方を嫌と言うほど
理解させられたと思っています。
何年かの後、私は、自然に非常勤研究員の立場を辞めていました。

日本で初めて、「オークションによるM&A」
1987年5月15日 日本経済新聞と日経産業新聞記事あり 

当時の経済環境では、M&Aは、まだ日本的経済に適合しないと考えられていた。
しかし、その一方で、ビジネスが成立するかどうかは、許認可を含む権利取得企業で
あるかどうかと言う利権的部分に左右される事が多かったのである。
そこで、その意味ではメリットのある薬事輸入ライセンスを持つ企業そのものが
休眠状態であったので、この企業なら購入したい企業がいると判断した。
また、この企業が輸入権利を取得していたヤギの細胞を使用した「妊娠検査薬」
を同時に権利として付けたのである。
権利を欲する企業は多いと見たので、それでは、いっそのこと「オークション」で
良い金額を良い条件のもとで売却できる様にしたいと考えて実行した。
大手企業を含む100社以上が打診してきたが、M&A自身が珍しいのに、
その上「オークション」と言う事で、尻込みをする企業も多かった。
特に情報を隠密裏に処理したいと言う意向が強かった。
NHKなどマスコミのオークション現場取材の申し込みも殺到した為、現実には非公開オークションとして
申し込みを受け、有力数社と相手方企業と私との打ち合わせにより、売却は決定した。
企業の存在感が重要であり、また寄らば大樹の考えが横行していた時代でもあり
ベンチャーの立場の私に、その後のM&A依頼は、打診のみであり大きな成果は上がらなかった。
新聞にあるM&Aを紹介する企業名には、その後活躍の数社が記載されている。

*現代の立場で
大小を問わず、本当の意味のM&Aが必要な時期であろうと思う。
単に株式の売買ではなく、企業の持つ本当の財産と、その財産を生かせる企業が
結ばれるとすれば、M&Aは、決してネガティブな結末ではない筈だ。
また、異業種が新しい企画に、古い業種のノウハウを活用することも可能だろう。
頭脳的M&Aの具現化がビジネスとなるのです。          中田記

日本で初めて、「求む工場」と言う企画 
1987年8月12日 日経産業新聞記事あり

「求む工場」は、私のビジネス経験から生まれた新しい企画です。
日本では、「系列」に代表されるように、多くの工場が製造保障の名のもとに
系列の親会社の仕事をしています。工場は、設備投資や工員の確保などを
行わなければならない状況があり、一旦仕事が枯渇すると、固定経費が
負担となります。宿命として保証してくれる大手企業との関連を強めて
いくしかないのです。
しかし、それだけでは、常にラインが保証されるものではありません。
その設備を有効に活用するためには、別な商品生産も重要なテーマとなります。
しかし、関連以外の取引となると、発注先が、工場を熟知しオーダーしてくれるか
と言うと中々実現しないのが実際です。(支払いの保証や物品の管理など多くの事が
問題となります)
そこで提案型の記事になったのが、この「求む工場」なのです。
その時に若干の資金余裕のある工場が、金型や生産力や資金を供給して
弊社に委託された特許内容を商品化する。
商社や販売店は、これを必要分のみ、弊社に発注し、総販売権利は弊社と
特許所持者と工場がシェアーする。
今まででは、産まれる筈のない商品が、生産されることとなるのです。
実は、近い内容は、現在にいたるまで私のテーマとして、進めています。
1987年、今から二十数年も前のことですが、今のほうがより現実的な
テーマとして存在すると思われませんか?
賛同される工場を今尚求めています。求む工場です!

開発者・製造資金負担者・コーディネーターそして販売希望者
専門的な取りまとめが出来れば、素晴らしい商品が生まれると思われませんか?
この様なコーディネートが完成すれば、知的所有権や特許は、日の目を見る事が出来ます。
具体的な、知的所有権売買が可能となるのです。
 
「社外スタッフ」と言う企画 
1988年 日経産業新聞記事あり 

これは、日本の企業常識の問題点を端的に突いたテーマです。
日本の終身雇用制度は、団結と安定などの実力を生み出す原動力と
なりました。しかし一方では、無気力、有言不実行と言うか
企業に付着し、無気力な人々を作り上げました。
組織改革を行う必要のある企業の場合、これを社内企画に任せますと
従来の企業常識が、担当者にあり、新しい事業の展開が出来ないケースが
多くあると感じたのです。
そこで、社外のスタッフを構成し、事業展開を企画すれば、
その組織の外部から見た信頼性を向上させて、より冷静な観点から
不足する部分を補い、充実できる新規事業を行える可能性があると
感じました。
これを実現させるため、私のブレーンを中心として、進めることとしたのです。
その後、この企画は、私のコンサルティングとして実現しましたが
私一人では、結局先生役としての活動となり、社内常識に飲み込まれることが
多くありました。
今は、そんな条件も出して、より具体的な外部スタッフとしての活動を行っています。
現代にこそ、より有効な手段であると自負しています。

●半導体メモリーと言う「電子の米」 
1988年12月23日 日経産業新聞記事あり 

半導体メモリーの商売に関わった人は、意外に多いと思います。
電子機器を専門としない人でも半導体メモリーを知る方は多くいます。それは、このメモリーが
「電子機器」の「米」であり、この米の取引が、たとえ1億円でも5億円でもキャッシュ・オン・デリバリー
(現金取引)されたからです。
実は半導体やメモリーが高騰したのは、前出のインベーダーの頃でした。
インベーダーのヒットに伴い使用される半導体は、市場で高騰しました。
例えば100円のものが5000円になる程でした。
半導体の高騰は、それ以後メモリーを中心として1990年代まで続いたのです。
しかし、日本経済は、半導体工場を「不沈艦大和」と言う過去の反省なく、企業のみならず
関連官庁を巻き込み多額投資したのです。半導体は、こうして一時期は、日本が席巻することと
なりました。メーカーは、この半導体デリバリーについて、まるで協定を結んだように、
出荷制限を行いました。それが健全であると考えた行動であったと思います。
その為に、一部の人が暴利をむさぼったともいえます。
結局、韓国工場が半導体を出荷し始めた途端に、すべてのルートが狂い、半導体の市場は
終わったと言えます。こうして不沈艦大和は、再度沈みました。
追記:半導体はメモリーが中心にされていますが、本当は日本で生まれたと言えるCPU
中央集積回路が、中心技術です。これがなければ今のパソコンそのものが意味を無くします。
プログラムも成立しません。しかし日本の電子技術系大手企業は、この日本発ベンチャー技術の
粋であるCPUを捨ててしまったのです。そして今やあらゆるパソコンには「インテル入ってる」
アメリカの技術となってしまったのです。残念です・・・永遠に

●「航空機ビジネス」の推移 
1989年4月13日 日経産業新聞記事あり 

この飛行機関連の記事は、飛行機にあこがれるマニアな人々を意識して実行したことです。
当時アメリカに行く機会の多かった私は、日本のTV放送でネバダ州の砂漠の中に飛行機の墓場と
いえる場所があるのを知りました。
そんな飛行機(飛べなくても)を日本に持ってくれば、博物館や店舗等で大いに有効価値があると
考えたのです。例えば、店に入るとそこにコックピットが展示されていたり羽根がドリンクのテーブルで
あったり、歴史的な飛行機に囲まれた空間はデザインに値する場所であると考えたのです。
結局、墓場は軍の管理する場所であり、売買は出来ないことを知りました。しかし民間でも
小型飛行機や歴史的な飛行機を持つ人々がいることを知ったのです。そして交渉の結果、
部品や第2次大戦中の飛行機の売買を可能とさせ、プロペラ等の部品を仕入れて、
この仕事を行うこととしました。
結局この仕事は頓挫したのですがその後、この飛行機に関連する仕事は、民間と言えども
アメリカでは軍の管理する部門であることを知ったのです。
その後、この件では、アメリカのチェックもあり、航空機のハードウエア技術関係のビジネスは
軍事と非常に近しいところにあり、一般企業が普通に始められるものではない事を知ったのです。
この出来事は、まるで自分のことではないほどの驚きと動揺でした。
(時がくれば、事の顛末を小説仕立てにしたいと思いますのでご期待ください)
ともかくその厳しさを痛感しました。

追伸 この時期、私はアメリカでは、ネバダ州のラスベガスにいました。シーザースパレスが
常宿でした。
今でも忘れられないのは、ラスベガスの民間飛行場から小型セスナで民間の
航空機博物館(ノースカリフォルニア)に飛んで、その展示されている歴史的飛行機がほとんど
飛べるものであったことです。
友人と相談し、帰りは、その飛行機の一機「B-25」をチャーターして、ラスベガスへ帰った事です。
映画「パールハーバー」の最後に空母から発信し、日本に最初の爆撃をした飛行機です。
ラスベガスの側には、米空軍最強のナレスエアホース基地があります。私は、B-25の先頭の
銃座にいました。
座席はなく、あぐらをかいて座るしかない狭い場所です。
ダミーの「エクスかリバー機関銃」が設置されていました。エアフォースにマークされたことは勿論、
空港には、多くのパトカーがいました。でも、そんな事が許された時期であったのかもしれません。
今なら「テロ」と間違えられて、撃ち落されるかもしれません。いずれにしても、ただではすまない
事でしょう。
後日の司法の件は、この事とは関係ありませんが、随分「やんちゃ」であったと思います。
B25の往復分のチャーター費用が約束の数倍であり落胆したことも、忘れられません。

●日本初のノートパソコン「TheBOOK」の特命プロジェクト(中田個人)

TheBOOK」を知る人は、相当なパソコン通だと思います。
なぜなら、一般に販売される事なく、その使命を終えた不思議なノートパソコンだから
です。
B5サイズ、2400BPSモデム内蔵、ROM形式でMS-DOS内蔵、フルキーボード
当時としては信じられない機能のある、日本初のノートパソコンなのです。
友人から紹介されたマイクロシステムズ社長K氏から直接要請を受けて
私は、このTheBOOK」の特命プロジェクトを引き受けました。
正式なコンサルタント業務です。
目的は、業務用の小型通信端末としての応用企画でした。
今で言えばITトータルソリューションと言う事になります。
多くのチャレンジを行いましたが、そう上手くはいきませんでした。
最も上手くいかなかった点は、当時(最近まで)金融を中心とした
ネットワークは、閉鎖的な一部の業者が行っていた訳で、
通信をサポートする状況だけでは、アクセプトされなかった
事だと思っています。
2ヵ年のコンサルタント契約完了時点でプロジェクトは終了しましたが、その後、私はこの
TheBOOK」を使用して、私の会社用の多くのアイデアを立ち上げました。
思い出に残るノートです。
(注)この会社の社長は、私のコンサル業務後、経済事件があったようですが、私は無関係です。
   上記は書く必要もないのですが、くだらぬ妄想を事実めかして言う輩がいるので、念の為!

●MACの世界へ一石! 1990年頃 
1990年6月19日 日経産業新聞記事あり 

アップルII・マッキントッシュ・SEと徐々にMACの完成度が高まった頃
台湾の友人が、SEを分解し内部をラップトップ型に内蔵させることに成功しました。
私は、この商品を日本で販売することとしたのです。
当初の仕入れ資金は総額で1億弱でした。
人気は上々で、良く売れたのですが、増設の基板等周辺を
多く付けると電源が不足する欠点がありました。
欠点をサポートするのに手間がかかり、納期にも問題が出て
結局2ロット(2回の輸入)で、販売を終了することとしたのです。

*同時に起こった事
台湾の友人企業では、この時点でマッキントッシュ互換機を
開発していました。設計者はMACの特許を完全クリアーしていると自身満々でした。
私は、この互換機には不安を持っていました。
なぜなら、アップル社が、容認する訳がないと考えたからです。
そして、予想は的中しました。
私が台湾のその企業にいた時に、事件は起こったのです。
事務所でくつろいでいると、突然台湾の警察官数名とアップル社の弁護士と名乗る
アメリカ人が入ってきました。
そして、その場で家宅捜査が始まったのです。
あっけにとられた私は、ただじっとその作業を見つめていました。
そのアメリカ人が私を睨む視線を感じました。
私が結託した日本人にでも見えたと思います。
後日、友人企業は訴えられたのですが、そこで不思議なことが起こりました。
当たり前かもしれませんが、その家宅捜査に同行した弁護士は
台湾での弁護士権限はなく、勇み足であり裁判で指摘される事となったのです。
結局裁判は友人企業が勝利したのですが、ベンチャーの悲しさと
言うか、この企業は予算がなくなり他の企業との提携や合併で、なんとか
継続可能な状態まで弱体化したのです。
その後彼らはMAC互換機の製造を止めてしまいました。
未だMACは、数社に対する互換機を認めるだけで、IBMのような互換機路線は
とっていません。 
  
●イ・アイ・イ(EIE) ブランド周辺機器の開発と製造
1990年6月29日 日本経済新聞と日経産業新聞記事あり 

当時EIEは不動産バブルで有名な会社でした。
私は、自分の開発した周辺機器が、自社ブランド以外でも、有名企業が販売する事も良いと
考え、EIEとの契約を行いました。
残念ながら、この試みは、EIEの事件で、中止する事となりました。
追記
当時EIEは、不動産資産1兆5000億円と言われていました。私はその不動産との関連は
まったくなく周辺機器という地味な部門で、この様な動きをしていましたが、結局影響面では、
逆にマイナスとなる結果となりました。
この件は、この2種類の商品で終了しました。光ディスク装置とFDユニットでした。

●ダイアルQ2用コンピュータの開発 
1990年12月12日 1991年7月18日 日経産業新聞記事あり 

記憶にある方もあると思いますが、「ダイアルQ2」用のシステムです。
記事は1990年12月になっていますが、実はその年の初めには、完成していたシステムです。
「アメリカのダイヤル900流行の兆し」と言う情報を私が得たのは1989年のことでした。
その時、私はシステムの構造アイデアが驚くべき速さで生まれたことを記憶しています。
誰かと誰かがランダムな電話をかけると偶然繋がる。これがツーショット・ダイアルです。
私のアイデアは、その片方側にIDを入れることでした。
IDを入力して入って来た側は、自分がどれだけ話したかLOGに記録されるのです。
マイアミにある電話回線用ボードを手に入れた私は、すぐに設計に取りかかりました。
システムの開発時間は、2ヶ月でした。
販売先は、私が過去に知る企業体とは異なることを理解して、友人のゲーム業界企業に
一任することとしました。

問題は後で起こった!
24時間使用されるこのシステムは、耐久性が重要です。
そこでシステム完成後、私は何日か電源を入れっぱなしにしておいたのです。
システムは、無事に動作していました。
問題は、出荷後現場で起こりました。
突然、ソフトウエアがフリーズするのです。
日本製のDOS/Vパソコンを使用して、より耐久性を増した設計をしたにも関わらずです。
長いトラブル対応の末、やっとシステムは、安定動作するようになりました。
原因は日本製のDOS/Vパソコンにあったのです。
日本では、長い間NECのPC9800パソコンが主流だったのですが、これは世界標準とは
まったく違うNEC独自のパソコンでした。
その為に、日本にDOS/V機が普及したのは、世界のDOS/V機が出回ってから、8年後
になってしまいました。
そして標準機ではないDOS/V機が日本製品に多く存在することとなったのです。
みかけはDOS/V機、しかしバスの細かいタイミングは違っていたのです。
それで頻繁に電話すると、ハードのタイミングが取れなくなりフリーズを起こしてしまったのです。
海外製のDOS/V機を使用する事で問題は一気に解決しました。

それからは安定した製造が続きました。受注増えるばかりでした。
私はその時ふっと感じたのです。
このシステムは、長くは続かない。規制の対象になるかもしれないと。
そこで売れているにも関わらず、私は製造数量をどんどん少なくして行ったのです。
案の定、ダイヤルQ2の「ツーショット・ダイアル」は、禁止となりました。
この禁止になったときの私の在庫は0台でした。
そして、その時点までで、新しく開発していたシステムが1990年12月から1991年の
一連の新聞記事なのです。
新しいシステム(新聞掲載分)は、電話による自動応答の音声システムとなりました。
そしてTV放送番組の予告編などに活躍したのです。

街頭キオスク端末の開発 
1992年1月14日 日本経済新聞記事あり 

これは、データベース付の街頭掲示板なのです。
予め、決めたアンケートや質問事項をテンキー入力で答える仕組みです。
そして、違う質問に答えた人は、その適合性で、前に入力された人の情報を(個人了解済のもの)
得られる他、占い情報や店舗情報も得られるようにしたのである。
コミュニケーションの自動増殖型システムとでもいえるのです。
インターネットの仕事をしている方には、今でも新規事業として行える仕組みです。
また、趣味の分野でも、大きな効果があるシステムである。
法的な規制が若干あるものだが、これらをクリアーすることも、特化させる要因となるのである。
ちょうど10年前のこの機械は、生まれ変わる輪廻転生を待つシステムであったのです。

●バーコード・システム
1992年2月28日 日経産業新聞発表 

バーコードは、JANコードに代表されるように商品や在庫管理、その他のコード管理など
多くの用途に使用されています。
簡単に誰でもバーコード印刷をラベルシールで
出来ることを目的として、作成したのがこの「ハッケン・セット」です。
今は、パソコンの専用ソフトでバーコードの発行は可能ですが、
この時期には、安価なシステムは少なかったのです。
この様に単一機能で動作する小型システムは現代にこそ必要な物と認識しています。
電源ONで即動作する仕組みの物です。

私は2次元のバーコードについてビジネスも進めています。
ICカードなどと連動し、より多くの情報をデータベース処理できる情報保持型システムです。
あらゆる分野で活躍できると思います。

●WINDOWS・システム 
1992年3月22日 日経産業新聞記事あり 

●WINDOWS・DOS/V機器の導入と販売の意味
WINDOWS3.1は意味のあるDOSであった。
マイクロソフトによってなされたMS-DOSの標準日本語化は
今までのパソコンのイメージを変えていった。
それまで日本の代表的なパソコンはNECのPC9800であったのだが
標準的IBM互換機では、AXと呼ばれる特殊表示VGAがなければ
動作しなかった日本語環境が、突然世界標準のIBM互換機で
構築されたのです。
長い間、なぜNECなのかと悩んでいた私にとっては、大きな転機が
来たのであす。
しかし、それでもMS-DOSは、使い方が難しい。そんな矢先に、現れたのがWINDOWS3.1であった。
(WINDOWS2.0と言うのもあったのだが)
発売と同時に購入しWINDOWS機を扱うようになったのには理由があるのです。
その一番は、多くの台湾友人工場です。
彼らのパソコンハード技術は、当時NECで独占状態にあった日本と比べ
最先端と言える物であったのでした。
その技術を全て日本で日本語化して使用できる。
ためらわずに進めたのがWINDOWS機なのです。(DOS/V機)
  
●日本で2番目のCDROMライター開発 
1992年4月23日 日経産業新聞1面記事あり 

このCDROMライター作成には、本当に苦労させられました。当時一般的にはCDROMは
まったく普及していませんでした。SONYが500万円前後の書込み機を出荷していました。
JVC(日本ビクター)がラスベガスのコムデクス・ショーで、新しい書込み装置のメカニックを
発表し、私は、これを動作品にすることに成功いたしました。
SONYの約半額で、日本第2号機のCDROMライターは、こうして完成いたしました。

 
●電子紙芝居開発・商品化 
1992年9月22日10月14日他 日本経済新聞と日経産業新聞記事あり

電子紙芝居は、音声と写真画像を画面表示させ、タッチパネルで操作
することで、一般の人が自由に使用できる案内マシンとして開発した物です
この時期に手に入る物は、メモリー的にはHDD(ハードディスク)程度ですから
記録はHDDで行いました。
誰もが使える。それはどんな場所に展示しても案内をしたり説明をしたり
と言う業務を無人で行えるメリットがあります。
またパソコンを使用していますから、連続使用のロスもありません。
ほとんどメンテナンスが不要なこともメリットです。
今風にいえば「キオスク端末機」と言えます。
ただし通信は繋がっていませんが・・・

現場の応用を重要に考えた私は、営業先を人通りの多い所にある
店舗に絞りました。
そして最初に設置された場所が渋谷の西武デパート(赤ちゃん専門店)
の1F正面玄関でした。
私は、この前を通るたびに、ちゃんと一人で動いているこのマシンを
見ながら、一人で満足してニコっとしていた記憶があります。
TV放送でも紹介されて、話題となった商品です。

●周辺機器開発 販売
1992年7月2日 数回 日経産業新聞記事あり 

周辺機器の開発を多く手がけてきましたがその中心はSCSI(スカジー)技術でした。
特にNECなどのDOS/V機が出回るまでの機種は増設が難しいケースが多く
これを解消する技術が必要であったのです。
偶然にも昔からの友人達の企業が日本・台湾などでSCSIの研究をしていたこともあり
周辺機器が多く開発できたと思っています。
同じ理論は、現在のUSBの2で始まるのかも知れません。
これからもチャレンジする可能性のある分野です。
 
●PET業界にチャレンジ! 
1992年9月23日 日経流通新聞記事あり 

自分のPETを家族としてかわいがっている人々は多い。
それならば、小ロットでPETの写真を活用した印刷物を作ろう。
それだけがこの企画でした。
私の周りの人々が最初にお客様になってくれた商品がこれでした。
  
「著作権フリー」と言う行動全般 1993年より継続
1993年3月10日 日経産業新聞記事あり

前出のCDROMライターが引き金となり、CDROMの出版を行うこととなった私は、
CDROMの大容量を利用して収録が可能な写真や絵、図などを中心に出版を
することとした。「メイビス出版局」である。
私は途端にその材料を探さなければならなくなった。
その1番目のアイデアが、「著作権の権利譲渡買取」である。
カメラの世界では、通常撮影に多くのフィルムを使うのだが、これらが印刷物などで
採用されるのは、ほんの数点でしかないのだ。この余ったフィルムを「著作権譲渡」で
買い取るのである。我ながら良いアイデアで、多くのカメラマンから売り込みが合った
これを買い取り、また私自身がカメラマンである為、今までに撮り貯めてあったフィルムも
合わせて「1000枚写真集」をCDROMで出版したのである。
その後このCDROMはVer3まで完成しベストセラーと言うか8年以上も販売されたのである。
(注)今も販売中である。
データを最初からGIFとJPGにしていた為、「著作権フリー」とあいまって、その後のインターネット
にも多く採用されたのである。
プリンターを代表とするマニュアル等の説明書にも、このデータは多く利用されている。
著作権フリーは一人歩きするので、妙なところで自分の写真に出くわすこともしばしばで
今では楽しみの一つになっているのである。 
  
なぜ著作権フリーにしたかと言うと、自分自身色々な番組を作りたいと思ったとき、
余りにも細かなところまで著作権が存在すると、自由な発想で作品を作れないことに、昔から
苛立ちを感じていたからなのだ。著作権や知的所有権は重要な財産であるのだが、
これが全てに厳しく適応されすぎると自由に作品を作る意欲を喪失させることを私は
痛いほど感じていたのである。それならば自分でその部品的作品を自由に使えるように
用意してやろうと言うのがその基本スタンスと言える。           中田記

●CDR音楽用 1993年頃 
1993年5月25日 日経産業新聞記事あり

CDROMのライターが完成後、開発を行ったのがこの音楽用CDRです。
音楽編集をMACで行う事は、この頃、プロの間でよく行われていたのです。
それをそのままCDに焼ければ良いなあと考えて、このCDR機を開発したのです。
その後、このCDR機はCDROMライターとセットでの販売に切換ました。
この写真の形状の物が、最も多く私が出荷したCDROMライターとなりました。
高額ではありましたが、店舗を中心に数百台を出荷しました。
現在の価格と比較すると、10倍以上の価格ですが
CDR普及のきっかけになった商品と思います。 

●「総務君」開発 1993年頃     
1993年6月30日 日本経済新聞記事あり

これは、記事ではなくCMです。「総務君」は、会社が必要とするカタログを
小ロットで安価に作成するシステムです。
このテーマは、昔から私の考え方と言うか、印刷に対する疑問点から
来ています。
1980年代後半に、アジア地域に出張する事の多かった私は、仕事上で
手持ちのマニュアルを現地で印刷することが多かったのです。
現物を印刷関係者に渡すと、1週間位で同じマニュアル本が完成してくる
経験をもっています。
それは現物の本と変わらない物で、写真や紙質まで同じなのです。
若干品質は悪いかもしれませんが立派な物でした。
ところが、商品開発を多く手がける私は、その後日本でカタログを作成する
機会が多くなり、印刷会社に依頼する事になった時に、納期や金額や仕組みに
疑問をもつ事となりました。
例えば、A4の両面のカラー印刷を依頼した場合、金額は軽く30万円以上と
なったりするのです。
何万枚も印刷する場合は、この金額に紙代程度が上乗せされるだけなので
問題ないのですが、ベンチャーでは1000枚もあれば十分なので、なんと
1枚のカタログが200円以上にもなるのです。
まして、沢山の種類のカタログを作るとすれば、金額は大変なことになります。
それならば、自社でカタログも作ってしまえと言うのが、この企画になりました。
この時期には、アメリカでは、MACだけでスキャニングから製版出力までを行い
印刷する新聞などがすでに行われていたのですが、日本では、そんな兆しも
まったく否定されていたのです。
(その後MACは日本でも印刷には必須となりました)
いかに軽いフットワークで、印刷を完成させるかは、私の長いテーマです。
現在ではWINDOWSでそのまま印刷するのが私のテーマです。
実際には、画像編集を直接WINDOWSデータのまま印刷に出していますが
結果は悪くないと思っています。
新しい印刷の形態を是非提案したいと模索しているのです。  中田記

全200巻以上のオリジナルCDROMコンテンツ製作編集1993年から継続
1993年8月19日 10回以上 日経産業新聞記事あり 
http://www.meibis.com/ 参照

  
●大学生住所禄CDROM 1993年〜95年頃
1993年8月19日 3回以上 日経産業新聞記事あり 
全国大学生の住所禄は、青田買いと称される専門正式業者によって
データベース化されていたのです。この権利を買取し、パソコン用データ
に再加工したのが、このCDROMです。
悪用を避けるための契約書を作成し、限定各社に販売したものです。

●合成写真印刷開発 1993年   
1993年11月1日 日経産業新聞記事あり 

合成写真は、印刷分野では、結構高等テクニックでした。
MACを使用して、画像合成を簡単に行おうと考えたのです。
この時期、写真を合成し自分の好きなデザインで調整することは、
プロの一部で行っているだけでした。それを簡単に行えるようにして
受注業務としたのです。
「昔の写真と記念の場所をバックにして合成」と言った依頼が多く注文ありました。
独立系のDPE屋さんに取り扱いをして貰いました。
最近はWINDOWSの世界でも、簡単に合成画像が作成できるソフトが出ています。
これからも、使用しつづける大切な技術です。

上海師範大学電机科客座副教授就任 (中田個人)
1994年 日経産業新聞記事あり 
必要があれば、就任証書などのオフィシャル書類がありますが
実際に授業はしていないので、名誉職ですね。
紹介者は、日本では肩書きが大切だと言っていましたが
その後、私との縁はありません。
この名誉職の期限がいつまであるのかも私は知りません。
こんな事に拘った自分を反省しています。

●音声CDも! 1994年頃  

CDROMの次に、CDも作ろうと考えました。
その第1段が、この中国語のCDでした。
これ以外にも、筆者が没後50年と言う著作権解除時期を迎えた作者の作品の朗読など
手がけることとなりました。
音楽用CDは、これからも標準として世の中にある以上、
私もチャンスがある時は、このCD作成をしていこうと思っています。

●CDROMメディア製作 1995年頃 

CDROMの普及を啓蒙する中で、生まれたアイデアがこの「スターを探せ」です。
当時かろうじて存在したパソコン通信は、NIFTYを中心とする物でした。
しかし、このNIFTYは、一切の参加者のビジネスを認めていませんでした。
制限付で、契約した企業のみがビジネスに使用できたのです。
当時から、ネット関連は、フリーで自己責任あるビジネスを
望んでいた私は、その後(この記事の頃)インターネットが
普及するまでの間、ネットビジネスチャンスを失っていたのです。
(1980年から1995年まで)
その一つのビジネスが従来の芸能界とは無縁な草の根的な
タレント(才能ある人々)を探す仕組みでした。
個人情報を発信するケースは、今ではインターネットHPと言う
便利な方法がありますが、この時期、CDROMに特化したのです。
(内容の容量の問題で)
作曲・作詞・モデル写真・データベースなどいくつかのCDROMを出版したのです。

日本初の提言実践「全社員役員制」1995年頃
1995年1月19日 数回 日本経済新聞と日経産業新聞記事あり 

「全社員役員制」は、仕事をする者にとっては、インパクトのある言葉である。
多くのサラリーマンにとって、昔は役員になることが憧れであったが、今は個性の時代であり
役員という言葉も魅力のない物になっているかもしれない。
記事にもある通り、「全社員役員制」は、それぞれが責任をもって行動する事を意味します。
会社と言うものを、見直してみると、基本的には営利を目的とする団体である訳ですが
日本経済の中では、安定した仕事場という事の逆説として、常に給料を貰える事が
当然の権利と言う理屈が成立します。
経営側から見れば、働く人それぞれに責任を持って給料を支払い、安定した経済で
精一杯の仕事をしてもらいたいと思うのは当然です。
経済不況が長く続く日本で、経営者は経営方針や新規事業なと変革・改革を行わなくては
ならない場合があります。
伴って、事業の形態が変わって行くのは、当然と言えるでしょう。
そんな一つのあり方として「全社員役員制」は、検討に値するテーマだと思います。

余談
本件発表と同時に大きな反響がありました。
「労働旬報」と言う出版社からは、長時間に渡り取材を受け、1ページ全部の掲載となりました。
また社会保険事務所からも、質問を受け、内容を説明し理解して頂けたと思っています。
人事のことは、これからも大きなテーマであろうと思います。

現地法人設立業務 1995年より 
1995年4月13日 日経産業新聞記事あり  

国際化の中で、製造・サービス・通信など多くの分野での現地法人
設立が必要な企業は、年々増えつづけています。
しかし、実際に現地に法人を作る場合は、税務から規則、現地の法律
過去の実績、文化の違い、事務所や工場、設備、輸出入の条件、
人件費、対日感情、安全性、効率、設備償却、節税など
上げれば切のないほどの調査や業務が必要となります。

私の体験では、香港、マカオ、台湾、中国、シンガポール、オーストラリア
タイ、ベトナム、インド、スリランカ、韓国、マレーシア、サイパン、
バヌアツ、パラオ、フィリピン、ニュージーランド、ヨーロッパ各国、
アメリカ、ペルー、ブラジル、カナダ、その他で、
過去に会社の設立や企業提携、関連の会社設立など多くの経験があります。
また直接ではない場合は、友人関連がその様な国に詳しいケースが
多いのです。

その様な経験や情報を駆使して、現地法人の設立の手伝いが出来ると
考えて、行動したのが、この新聞記事です。

日本の中で現地法人設立企画をすると(勿論現地にも行くのですが)
どうしても良い情報ばかりが先行します。
また、悪い情報も、端折られて、伝わってきます。
例えば、香港で休眠会社を売買するのは、とても楽な手続きですが
その会社をやめる場合は、お金や手続きが大変になりますし、
罰則も厳しいのです。また、現地の設立時の契約書にない約束も
後で言質として、正式なクレームとなる国もあります。
また、当事国の弁護士同士が知人で、その為に、すぐに終われる裁判が
延々と継続されることもあります。
よほどの経験者達が、真剣に対応しなくては、食い物にされるケースは
珍しくないのです。

同様に個人の立場での現地永住や、長期滞在、銀行口座、不動産売買
物的な売買、等多くのケースも、しっかりとしたケーススタディが必要と
なります。
私の経験から言わせて頂くとすれば、
「生半可な経験や知識や、外から見た日本的常識範囲での判断」が
最も危険な方法となると思います。
 
●ゲオGEOとの取り組み意図 1996年頃  (中田個人)
1996年5月 日経産業新聞記事あり

GEOは、ご存知の方も多いと思いますが、ビデオレンタル・ショップを
全国展開する会社です。
突然、友人の紹介でこのGEOのA社長と知り合いました。
そして、コンサルタントをさせていただく事となりました。
上場準備中の時でした。
結局コンサルティングは半年間でしたが、その折に提案し
納入させて頂いたのが、このインターネット・サーバーです。
出来れば全店でインターネット端末機を導入してほしかったのですが
まだネットは始まったばかりの時期でしたので
少し早すぎた様に思います。
追記 上場前の企業のコンサルタント経験は、10社以上です。

●中国の大学へ留学斡旋 1995年頃
1995年6月12日 日経産業新聞記事あり 

留学と言うとアメリカがスタンダードですが、これからの市場を考えると中国を外す事は出来ません。
そんな中国に縁があって、留学の手伝いをすることとなりました。
始めてみて理解できたのは、当然ですが言葉の問題です。
北京語がちゃんと出来なければ授業も受けられません。
ですから、最初は現地の語学学校に行かなければならないのです。
1〜2ヵ年の語学学校。それから北京語の試験。そして大学です。
また、大学の寮は、個室や高級な部屋の確保が難しいと言う事。
ホームステイの場合の常識の違いなど、多くの点に問題がありました。
現在は、この業務を行っていませんが、ノウハウは、あると思っています。

昔、友人とアメリカの高校へ高校中退の生徒を紹介する業務を行ったことがありますが、
それがきっかけで、アメリカの大学の日本校が設立されたと記憶しています。
こういった企画は、これからも必要となってくるでしょう。
ネット等との係わり合いも含めて、検討出来るアイテムだと思います。

●インターネット事業 1996年頃 
1996年6月19日 日経産業新聞記事あり

インターネット事業は、今後大きなテーマになると主張し続けた私ですが、ほとんどの人には、
流行ものと言われました。それがやっと認識され始めたのが1996年です。
1995年神戸の震災でネットが話題になった事もあり、ネットの重要性に気づいてきたのです。
パソコン通信から数えて10年の歳月が流れていましたせっかくの活用できるパソコン通信は、
中心サーバーで管理する世界でしたから、その管理者がビジネスを禁止したことで、
海外とは違う発展しかしなかったのです。それが、活用方法の発展を阻害したともいえます。

追記
記事にもあるように、「ソフト開発」がパソコン開発の主力の時代に移ってきました。
私はハード開発もしているのですが、人々はパソコン開発と言うと「ソフト開発」を認識してしまう
様になってきたのです。これは後の問題となることですが、その後の
IT産業を見ると、単なるITのアプリケーションのみで上場する企業も現れました。
ITバブルの時代となるのです。

「ビジネスモデル特許抵触の可能性」作成と発信と影響 (IS嘱託)
ビジネスモデル関連 記事、ネット記事、特許関連参照


●家庭用ゲームやTV用飛び出す3D装置の開発(3D技術開発本部長)
2001年8月10日 インターネット各種記事参照
●裸眼立体視液晶モニター(メガネ不要)開発(3D技術開発本部長)
2001年10月16日 インターネット各種記事参照
●関電工との提携、コロンブスLAN発売(ネットハンズ代表取締役会長)
2002年8月22日 インターネット記事参照 日本経済新聞他
http://bb.watch.impress.co.jp/news/2002/08/21/3sha.htm参照
クレジット電子決済エシックスと提携・開発(ネットハンズ代表取締役会長)
2002年9月9日 インターネット 日経産業新聞記事あり
●携帯電話写真転送システム 販売(ネットハンズ代表取締役会長)
2003年3月3日 インターネット 日経産業新聞記事あり
●日本経営者同友会 専務理事就任
2003年8月 同友会URL参照
●2004年以降 株式会社マーユの業務(アパレルブランド)
●2007年以降 新商品開発を随時行っています。TVで話題になっています。別途レポートがあります。

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